「4D言葉」とは?
この言葉の存在自体初めて知りました。お恥ずかしい限りです。
「社会人として4Dは控えるべし」と言われて、ピンとこなかったのはここの雑草魂です。3Kなら知っている!と思ったものの、果たして同じ括りで良いのかとふと疑問に思ったくらい何も知りませんでした。
(多少の脱線をお許しください)
そもそも3Kも怪しかった私は「汚い・きつい・危険」だったよな、と思いつつ、念のため調べてみようと思ったら「新3K」なるものと遭遇しました。
「新3K」とは、「きつい・帰れない・厳しい」「給料が安い・きつい・帰れない」などいくつかのバリエーションがあるようです。
現代人の働き方が絶妙に反映されていますよね。
さてさて、本題は4D言葉ですので、戻りましょう。
「4D言葉」とは、「だって・でも・どうせ・ですが」の4つです。
調べた瞬間に頭を抱え込んでしまいました。もちろん、思い当たる節があちらこちらにあったからです。
私はよく友人から「サバサバしている」「無駄がない」「我が強い」といった印象を受けているようです(必ずしも第一印象だけではない)。
自分の周りをコントロールしたい欲や自分主体で行動することもあると、もはや潔く認めてしまいましょう。
内輪ネタとして「反骨精神の塊」と笑って過ごすこともあります。もちろん、思い当たります。
誰しもが、良かれと思って行動した結果、その行動が実は間違っていたということが発覚した時には「でも…」と続けて自分を擁護したくなるものです。
明らかに自分のミスであるときは謝るしかないと思っていますが、自分の頭で考えて行動して、間違えてしまったときには一言、自分の思考過程を相手に伝えて理解してもらいたいと思うのではないでしょうか。
私もこういった人間の一人です。自分がどのように考えて、自分の導いた結論にたどり着いたかを相手に知ってもらいたいあまりに、時として無意識にぽろっと出てしまうことがあります。
ただ、4D言葉を使うことによって相手も傷つけますし、自分もビジネス現場だろうとプライベートだろうと損していることも分かります。
ネガティブな印象しか与えないこの4つの言葉は少しでもその言葉自体の使用数を減らすか、そういった印象を与えない別の言葉を選ぶ必要があります。
例えば、上司に自分のミスを報告するとき、
4D言葉を含むバージョン:「A案件に関して、漏れがありました。申し訳ありません。でも、〇〇さんが最終確認をしていただけると思っていたので…」
4D言葉を含まないバージョン:「A案件に関して、漏れがありました。申し訳ありません。私としましては〇〇さんが最終確認をしていただけると思っていたので…」
月並みな例文かもしれませんが、やはり受け取るニュアンスが違うことは伝わると思います。
自分の正当性だったり、考え方を押し付けるようなニュアンスを含む言葉を意識的に避け、言葉遣いから信用してもらえるような人間になりたいと決意を改めた次第です。
夢の国で考えたこと
お久しぶりです。
またしばらく空けてしまいました。
7月下旬にしてすでに梅雨明け&35度越えの連日、となるとどうしても頭が暑さにやられてしまいます。(ごめんなさい、言い訳です…)
この暑さの中、雑草魂はディズニーランドへ行ってきました。信じられませんよね?!
でも、大丈夫です!生きて帰ってくることができました。むしろ久しぶりの夢の国だったので、暑さに負けないくらい楽しみました。
小学生が夏休みに入った時期でしたので、正直ランド内は混んでいるのではないかと心配はしていたのですが、一番長い列待ちをしたのが、スプラッシュマウンテンの70分待ちだったので、予想以上にアトラクションにも乗れたのです!
ディズニーランドは35周年の節目を迎えるアニバーサリーイヤーとのことで、アトラクションのリニューアル、フードのスペシャルメニュー、期間限定グッズなどなど老若男女がそれぞれに楽しめる仕掛けが至る所にありました。
最近はちょっとばかし自分の働き方について考える機会が多く、周りに転がっているビジネスモデルやアイデアについ目がいってしまいます。
例えば、ランド内のフードは誰かが大声張って「このミッキー型のアイスクリームおいしいですよ~」と宣伝しているわけではありませんよね。むしろそういった美味しいアピールをするような宣伝は一切ありません。それでも、他の人が美味しそうに頬張っている様子を見ると自分も食べたいと思ってしまうのが人間の心理です。
最近はこういった作り手があえて自らの商品を売らない戦略で勝負に出ているケースが多いのではないでしょうか。もっとシンプルに言うと、口コミなどで「知る人ぞ知る」といった特別感を演出し、魅力を感じた人が購入するといった感じです。
この口コミ力はなかなかの影響力です。
最近だと「インスタ映え」することも拡散に繋がりますよね。
魅力を伝える手段として、話術だけでなく、SNS上の写真など様々なツールが有効的です。「百聞は一見に如かず」という言葉もあるくらいですから。
日頃話すときも、うまく魅力を伝えたいと意識しているのですが、自分が魅力的と感じることを相手に伝えるって案外難しかったりします。
相手に伝えたいあまり、熱量は十分すぎるくらいあるのですが、目の前にいる人を置いていってしまうことも度々あります…
そんな時には、深呼吸。
それと、相手がどういったところに普段魅力を感じるのか、などを聞いてみて「じゃあ、〇〇とかありじゃない?」と勧めてみたりしています。
私は単純な生き物ですので、自分が好きなものは周りの人にも好きになってもらいたいのです。そのために自ら発信する場の一つとして、もっともっとこのブログを活用していきたいと思っていますので、お付き合いください。
出会い、そして別れ
人とのご縁とは不思議なもので、少しでもタイミングがずれていたら会うこともなかったような巡り合わせがたくさんあります。
まさに一期一会。
そして出会いと同じくらい巡ってくるのが別れ。
一昔前まで意味していた「別れ」と現在の「別れ」だと随分と捉え方が変わったのではないでしょうか。
少し前の「別れ」だと、文字通り一生会えなくなってしまうような別れであることを踏まえて、電話番号や文通出来るような住所の交換をしていた時代ですよね。
それがネットの普及で、メールでのやりとり・様々なSNS媒体で友達申請・ラインなどのコミュニケーションアプリでの無料会話やビデオ通話といった色々な方法で格段と連絡を取りやすくなったと実感します。
相手の声や表情をきちんと把握出来るような媒体の出現により、今まで辛かった「別れ」を少し緩和してくれるような、そんな気持ちにしてくれます。
若干、感傷的な文面になってしまいました・・・
雑草魂も人並みの出会いと別れを経験してきたと思っています。
ただ思うのは、それらの出会いや別れって、節目節目にやってくる当たり前のものだったのかもしれないと思うのです(極端な話ですが)。
というのも、学生時代だと学校に入学すると「出会い」があり、卒業すると「別れ」があります。
会社の場合も同じです。
入社したからこその「出会い」、そして「別れ」があります。
これらは言わば、心の準備が出来ているものです。
でも、今私は予想外の、心の準備がこれっぽっちも出来ていなかった「別れ」に直面しています。
半年間という短い間であったけれど、お世話になり、視野を広げてくれた人。
自由に生きるのが好きな人で、いつどこかへふらっと旅に出てもおかしくないような人。
こういった生き方も出来ると目の前を走ってくれた人。
頭の中では分かっていたけれども、「それは今ではない」と思っていました。
当たり前の環境なんて存在しない、という言葉を投げかけてくれた人でもあり、同じ環境に腰を据えすぎて感謝の気持ちが薄れかけるなんてことがないように・・・と身をもって諭してくれているような気がします。
少しずつ気持ちの整理をして、さらに大きな世界を見ようと前を向いているこの人と対面した時に「またいつか」と笑顔で見送れますように。
『かがみの孤城』を読み終えて
「願いの鍵」。
自分の目の前にこの鍵を使えるチャンスが巡ってきたら、一体何を願うだろう。
『かがみの孤城』(著:辻村深月、ポプラ社)を読み終えて、そう思わずにはいられませんでした。
【あらすじ】
訳も分からず、鏡の世界への招待を受けた中学生7人。そこで出迎えてくれたのはオオカミの仮面を被った少女、“オオカミさま”。彼女は「願いの鍵」の存在を明かし、そこに集まった7人の中から見つけた者のみが願いを叶えられるというのだ。
徐々に浮き出てくるそれぞれの苦悩や想いにお互いが共鳴し、鏡の世界での出来事により、現実世界でも一歩踏み出そうとする子たちが続出する中で・・・
そもそも「願いの鍵」は存在するのか。なぜこの7人が選ばれたのか。「かがみの孤城」とは、どこなのか。登場人物の疑問に寄り添いながら少しずつ光が当たる真実に私は言葉を失いました。
そして改めて・・・
自分の目の前にこの鍵を使えるチャンスが巡ってきたら、一体何を願うだろう。
-睡眠を取らなくても、仕事に遊びに邁進出来るような体が欲しい。
-タイムリープして、江戸時代での生活を体験してみたい。
-自分と周りの大切な人が笑顔で暮らせる日々がいつまでも続きますように。
「願いの鍵」が存在するならば、色々と願いたいことはあります。
『かがみの孤城』の登場人物たちもそれぞれ具体的に思い浮かんでいたところ、最終的には・・・(あまりネタバレにつながるようなことは触れないでおきましょう。)
「これをきっかけに変われるかもしれない。」
そう思えて、明日を心待ちにした登場人物たちに心洗われた雑草魂でした。
Think Outside the Box
よく言われていた気がしますし、こういった考え方が求められる環境が多かったとも思います。
“Think outside the box”って。
直訳してしまえば、「箱の外で考える」。
ニュアンスだと、「常識にとらわれない」「縮こまらない」「自分色」といった感じでしょうか。
あくまで私の解釈ですが。
マニュアルのような人の足並みを揃えるためにあるものはあまり意味を持たない雰囲気に世の中が少しずつシフトしていることを肌で感じることがあります。
日本人の国民性として、「みんな同じ」ことが出来るのは非常に重宝され、美徳と言っても過言ではない能力と思われていますよね。
私もこの考え方を完全否定するつもりはありません。
むしろある集団に同じ方向性を向いて欲しいのであれば、一種のマニュアルは必要になります。
ただ、意識の持ち用1つでその後を左右するのです。
マニュアルに沿うことは、一種の型にはまること。
一旦、型にはまってしまうとなかなか抜け出すことは出来ません。
気が付いたら、マニュアル通りにしか動けない、考えられない人間に出来上がっているのです。
会社組織に当てはまると、より想像しやすいかもしれません。
例えば、採用面接で「○○がしたい」と意気込んでいる姿勢が買われたため、入社するとします。しかし、その姿勢や良い意味で突出していた個性は入社後に受ける研修などで一気に削られ、月日が経つに連れて、その会社に合ったただの社員となってしまうのです。
会社に染まることが悪いと言っているわけではありません。
ただ、どんな場面に直面しようとも、自分から発信する意味を持ちたいというのが率直な考えとなります。私が発言しようと、隣の人が発言しようと、似たような意見の寄せ集めでは前には進めませんから。
こんな状況を打破すべく、“Think outside the box”を心掛けたいと思うのです。
ちょっとした意外性や一捻りを加えるのも、もしかしたら手かもしれないですね。
注意も関心のうち
みなさんは相手にどういった行動を求めますか。
挨拶やお礼を言える。
人にやられて嫌だったことを自分もやらない。
協調性。
笑顔での会話。
恐らく色々なことを思い浮かべるでしょう。
私は仕事柄、会社組織の上層部と日常的にやりとりがあり、毎日のようにどうすれば「相手の期待」「求めている業務水準」に応えることが出来るかを考えることが多いです。
自分がそういった基準をきちんと満たすことが出来るように行動を取っているつもりのため、相手にも同じようなことを求めてしまいがちです。
しかし、会社の上層部は時として、気まぐれな集団と化します。
とある日の上司:「前回と同じように書類作っておいて」
雑草魂:「承知しました」
↓
数日後の上司:「これじゃだめだよ。前回と同じだとつまらないだろ」
雑草魂:「(心の声:嘘だろ?!?!)・・・承知しました」
こんなやりとりがしょっちゅう行われる中、様々な思いに苛まれるのです。
悔しさ・・・「準備の仕方が甘かった」
いらいら・・・「指示通りにしたのに」
切なさ・・・「その一言で今までの労力が水の泡だ」
言動の食い違いは私から言わせてみれば、ルール違反も甚だしいところです。求めていた行動、予想していたやりとりとは全く違います。
一方で上司側からしてみれば、ただ単に私が基準に達していないだけなのかもしれない。
今まではそういった玉砕した状態からどうにかまた次へ繋がるように負のオーラをまといながら道を探っていました。
でも、最近はもしかしたら、今後の成長に期待してあえて注意してくれているのかもしれない。とも思うのです。
人に怒ることや注意すること、嫌いになることはエネルギーを使います。
なんならリスクが高すぎます。
上司が部下を注意した場合、部下は会社を辞めてしまうかもしれない。
友人同士の仲で相手に怒った場合、何年もの思い出が一瞬にして消え去るかもしれない。
親が子供に厳しくしつけをした場合、子供はトラウマとして心に傷を抱えるかもしれない。
そういったリスクを抱えてでも、注意してくれる存在はやっかいなものと思うのではなく、ありがたいと感謝するべきものなのではないかと考えられるようになりました。
「本当に怖いのは無関心の対象となること。注意されているうちは華」と声を掛けてくれる人がいるから、ほんの少しだけですけど、また一歩前進。
どうせなら苛つく毎日ではなく、笑いで溢れる毎日を過ごしたいから。
情報海での泳ぎ方
「人間とは好奇心旺盛な生き物である」、とよく耳にします。
何事にも興味を持ち得るし、視野を広げる能力を持っている。
そういったニュアンスでしょうか。
現代にはそういった好奇心旺盛な人々にはアンテナを張ってさえいれば、いや、もしかしたら意識的に張っていなかったとしても、引っかかってくる「情報」がたくさんあると思うのです。
ニュース1つをとっても、今はテレビ・新聞・ラジオ、といったいわゆる主流のメディアだけから得られるものではありません。インターネットやSNSを通して、より早く簡潔に情報を手に入れることが出来るような素晴らしい世の中になっています。
ただ、情報を得ることの容易さに浮かれてばかりはいられません。
みなさんも常日頃感じてことと思います。
「情報量、多くない?!」
自分から情報を追わなくても、「お気に入り登録」などワンクリックで済ませれば、好きな情報が向こうから届く。
だからこそ気が付いたら、自分から選んでいたつもりの情報に躍らされ、溺れている感覚に陥ることもあるのではないでしょうか。
どのような対処法が正解なのかは私にも分からないですし、個々に合った情報量との付き合い方があるはずです。
周りに転がっているたくさんの好奇心。
どこまで自分の中へ取り入れるか。
個人的には、全ての情報に目を通すのは、例え自分から望んだものだろうと、不可能に近いものがあると感じています。
だからこそあえて、自分から探し求めているものを追求する心も大切にしようかと。
情報1つとっても、受動的にではなく、たまには能動的に動くのもありなのかもしれませんね。